2012年5月17日木曜日

保全生物学の成立


保全生物学の成立

生物学史研究 No.64 (1999) pp.13-23
SETOGUCHI Akihisa
The Rise of Conservation Biology :
The Biodiversity Crisis and Ecology
*1999年7月5日受理
**〒606-8501 京都市左京区吉田本町
京都大学大学院文学研究科
E-mail:setoguch/span>


瀬戸口明久**

はじめに

 1992年6月に,ブラジルのリオデジャネイロで開かれた地球サミットにおいて,生物多様性条約が採択され,「生物多様性」という生物学由来のことばは広く知られるようになった。生物多様性の保護は,それまでの野生生物保護と二つの点で大きく異なっている。第一に,生物多様性保全においては,すべての生物の保護を目指す。それまでの野生生物保護が,ジャイアントパンダのような特定の種の保護を目的としてきたのに対して,生物多様性保全は,そのような目立つ種のみならず,哺乳類から微生物まですべての種を保護しようとする。第二に,生物多様性保全は種の多様性のみならず,種内の遺伝的な多様性も保護する(1)。生物種は種内でも多くの変異があり,それらの多くは遺伝的な変異に由来している� �それまでの野生生物保護がそのような種内の多様性に目を向けることはほとんどなかった。
 生物多様性の危機が気付かれたのは,1970年代半ばのことであった。その後,生物学者たち,とりわけ生態学者たちは生物多様性を守るため,保全生物学という新しい学問を創った。保全生物学は危機から生まれた学問分野であり,生物学,特に生態学を基盤とする応用科学である(2)
 本稿は,保全生物学という一つの応用科学の成立過程を明らかにすることを目的とする。まず第1章では,1970年代後半,科学者たちが保全生物学を提唱し,その理論が構築されていく過程を扱う。続く第2章では,1980年代後半に,保全生物学が制度化していく過程について扱う。科学史の伝統的な用語に従えば,前者が保全生物学の内部史,後者が外部史ということになるだろう。
 

1.保全生物学の誕生−生物多様性問題と科学−

1.1.生物多様性問題の出現

 生物多様性の破壊が最も問題となるのは,熱帯雨林においてである。熱帯雨林は地球上で最も生物多様性が高く,現在知られている生物種137万種のうち,半数以上が生息していると考えられている。しかも熱帯雨林は今日でも,採集される生物のほとんどが未記載の新種という全く未踏査の生物圏なのである(3)。それゆえ熱帯雨林の大幅な破壊は,生物種の大量絶滅につながることになる。
 熱帯雨林が減少していることは,一部の熱帯雨林研究者には,すでに1950年代から知られていた(4)。しかし,熱帯雨林の破壊によって生物種の大量絶滅が起こっていることが初めて指摘されたのは,1972年のことである。この年,メキシコの生物学者A. Gomez-Pompaらは,Science誌に「熱帯雨林:再生不能な資源」(5)という論文を発表した。この論文で彼らは,緑の革命による集約農業が,それまでの移動式農業と違って,熱帯雨林を不可逆的に破壊していることを指摘した。緑の革命とは,1960年代に発展途上国の農業生産を飛躍的にのばした農業の近代化である。この革命の結果,一カ所に定着して単一品種を栽培し,化学農薬,化学肥料を投入する先進国型の農業が定着したのだった。しかし,その改革によって熱帯雨林が不可逆的な形で破壊され,野生生物の大量絶滅がおこりつつあるというのである。
 1970年代半ばになると,このような大量絶滅問題について,いくつかのシンポジウムが開かれるようになる。その一つである,1974年にWWFとスミソニアン協会の後援で開催されたシンポジウムについてある記事は,次のように伝えている。
 
保護運動は,やさしい茶色の目をしたふわふわの生き物に関するものだという次元を,もはやはるかに越えている。・・・あるインドの役人が言った次のような言葉が引用された。『われわれはトラを頂点とした生物学的なピラミッド全体を守ろうとしつつある・・・』(6)


ここで示されている保護戦略は,すべての生物種を守るという点で,今日の生物多様性保全と違いはない。では,生物多様性のもう一つの要素である,種内の遺伝的多様性の保護はどうだろうか。
 種内の遺伝的な多様性の重要性も,すでに1973年に指摘されている。この年,環境保護団体天然資源防衛会議(NRDC)の生物学者Norman Myersは,大量絶滅,とりわけ熱帯雨林の破壊に伴う絶滅が,農業,製薬,産業上有用な遺伝子資源の喪失につながることを警告した。種内の遺伝的な変異も遺伝子資源となりうる。それゆえ「種間だけでなく,種内の遺伝的な多様性を維持することにも利益がある」(7)のである。
 このように,現在の「生物多様性」という概念に相当するものは,すでに1970年代半ばには存在しており,多くの生物学者や環境保護活動家にとっては大きな問題であった。ただし,「生物多様性」ということばはまだなかった。1970年代半ばから後半にかけては,「生物相の多様性」(biotic diversity)ということばが現在の生物多様性に相当するものを指していた。1980年代に入ると,「生物学的多様性」(biological diversity)という用語が使われ始めた。 この「生物学的多様性」の短縮形が「生物多様性」(biodiversity)である。後者は後述するように,1986年に開催された生物多様性フォーラムから用いられるようになったものである。
 


どのように多くのquollsは生きている

1.2.保全生物学の理論的基盤

 この生物多様性問題に対処するために,保全生物学という新しい分野が誕生した。それは1978年のことである。この年の9月,集団遺伝学者のMichael Souleらが中心になり,サンディエゴ野生動物公園で第1回保全生物学会議が開かれた。この会議の出席者らによって,2年後に論文集『保全生物学−進化生態学的展望』(8)が出版された。そこでは主に,島の生物地理学理論と集団遺伝学の自然保護への応用が論じられている。これら二つの理論が保全生物学の基盤となっているのである。
 島の生物地理学理論とは,数理生態学者のRobert MacArthurと生態学者のEdward O. Wilsonが1963年に共同で発表した,島嶼に生息する生物の種数に関する理論である(9)。それまでの生物地理学では,島嶼に生息する生物種数は,島の地形や,生物種が大陸から島まで到達する時間の長さから説明されてきた。その説明によれば,十分な時間がたてば,遠くの島でも近くの島でも種数は同じになるはずである。MacArthurとWilsonは,そうはならないと主張する。彼らの理論によれば,島の種数は,移入する種数と絶滅する種数が平衡に達することによって決定される。大陸からの距離が遠ければ遠いほど移入率は減少し,島の面積が小さければ小さいほど絶滅率は増大する。また島に生息する種数が多ければ多いほど移入率は減少し(なぜなら既に移入済みの種が多いから),絶滅率は増加する。このような移入� �曲線と絶滅率曲線の交点が平衡状態であり,そこからその島の種数が決定される。
 MacArthurは生態学をそれまでの博物学の段階から,理論とそこから導かれる予測を検証する実験からなる精密科学に変革しようとしていた。島の生物地理学理論もそのような試みの一つである。1976年になると,この島の生物地理学理論から意外な予測が導かれた。
 生態学者のDaniel S. SimberloffとLawrence G. Abeleは自然保護区を島に見立て,どのような形状の自然保護区が最も多くの種を維持できるかを,島の生物地理学理論に基づいて考察した(10)。彼らの結論は,総面積が同じならば,単一の大きな保護区よりも複数の小さな保護区の方が多くの種を含む,というものだった。この仮説はSimberloffの行った実験によって検証された。彼はもともと単一のマングローブに覆われた島を,幅1メートル以上の水路を掘ることによって4つに分割した。その結果,当初77種いた島の生物は,4島合計で81種に増加したのである。もっとも彼らはこの後,分割することによって種数が減少した別のデータも示している。彼らは,理論を無分別に応用することを問題にしたかったのである。
 しかし,この論文はすぐに激しい反発を招いた(11)。彼らの示した予測が反保護派に有利なものだからである。この仮説に従うと,例えば保護区内に高速道路をつくるようなことが容易に承認されてしまう。単一の大保護区か複数の小保護区かというこの議論は,SLOSS(Single Large or Several Small)問題と称され激しい論争となった(12)。この論争の結果,野生生物保護に関心を持つようになった生態学者も多いのである(13)
 初期の保全生物学のもう一つの理論的な基盤は,集団遺伝学である。ここで問題となったのは,近交弱勢と遺伝的浮動という二つの現象である。これらの現象の理論的な解析は集団遺伝学の初期から行われていたが,それが自然保護に応用されるようになったのは1970年代半ば頃からである(14)。近交弱勢とは,それまで大きかった集団が突然個体数を縮小させた際に起こる現象である。これは,小集団化することにより近縁者と交配する確率が高くなる結果,劣性有害遺伝子のホモ接合度が増加することに起因する。近交弱勢が起こると,適応度の低い子孫が生まれるため,その集団はますます小さくなることになる。一方遺伝的浮動とは,集団中の対立遺伝子頻度が確率的な原因によってランダムに変動すること を指す。集団の大きさが小さくなればなるほど,このランダムな変動によって対立遺伝子が除去される確率が高くなり,集団の遺伝的多様性が減少することになる。その結果,その集団は遺伝的に均一になり,将来の環境の変化に対応しきれなくなるのである。集団の個体数が50より少なくなれば近交弱勢の効果が現れ,500より少なくなれば遺伝的浮動の効果が現れることが,経験的に導かれた。これを50−500則といい,その妥当性も初期の保全生物学にとって大きな問題だったのである(15)
 島の生物地理学理論は,進化生態学の理論の一つと言うことができる。一方集団遺伝学は生態学とは独立した分野である。しかし,これらは全く独立した分野というわけではない。1960年代を通じて進化生態学と集団遺伝学は急速に接近していった(16)。以下では,進化生態学の成立過程から進化生態学と集団遺伝学との近縁性について検討する。
 1940年代までは,生態学的な現象と進化とは異なるタイムスケールで起こるものだと考えられていた(17)。そのため,集団遺伝学を中心に,古生物学,分類学などの分野によってなされた「進化論の統合」(evolutionary synthesis)には,生態学は含まれていなかった。「進化論の統合」によって生まれたネオ・ダーウィニズムの立場では,進化は個体にかかる自然選択から説明される。しかし,多くの生態学的な現象は,個体ではなく,種の存続を確実にするために起こっているように見えた(例えば利他行動)。ネオ・ダーウィニズムの立場による進化生態学の研究は,イギリスの鳥類学者David Lackが1940年代に行った,鳥の託卵数に関する研究に端を発する。これらの研究は1954年に出版された『動物個体数の自然制御』(18)にまとめられた。この書でLackは,鳥の託卵数は個体にかかる自然選択の結果決定されると主張した。また,1964年のW.D.
どのような種類は黒と灰色のヘビです。
Hamiltonによる血縁淘汰説の提唱によって,利他行動は個体にかかる自然選択の結果として説明出来るようになった(19)
 1970年頃までに,多くの生態学的な現象が,個体にかかる自然選択から説明されるようになっていた。それらの説明では,生活史戦略のような生態学的な表現型の形質が,それぞれ対応する遺伝子型に還元された。そして,表現型の適応度に応じて,集団中の遺伝子頻度が変動する。この論理は,集団中の対立遺伝子頻度の変化を進化と考える集団遺伝学の論理と変わるところはないのである。
 アメリカでは,20世紀初頭から野生生物の保護を目的としてきた応用科学として,野生生物管理学が存在していた。伝統ある野生生物管理学者たちの一部は,新興の保全生物学に対し,強い反発を示した。例えば,ある野生生物管理学者は次のように言っている。
なぜ新しい組織[保全生物学会を指す]が必要なのか?なぜこれらの科学者たちは,自然の保護を関心の対象とし,強調してきた,すでに確立された専門家集団[野生生物管理学者たちを指す]と一緒にならないのか?・・・明らかに,新しい学会はすでに多くの専門的な学会によって満たされているニッチに入り込んできている。(20)

この野生生物管理学者の指摘にも関わらず,保全生物学は確実に科学の世界におけるニッチを獲得していった。その理由の一つとして,すべての種を保護の対象とする応用科学はそれまでなかったことがあるだろう。野生生物管理学は,その起源に従って,狩猟獣を主な対象としていた。しかしより重要な理由は,保全生物学が進化生態学由来の応用科学であることである。野生生物管理学者たちと生態学者たちは,1950年代までは活発に交流しており,お互いの学会の雑誌に投稿しあうことはしばしばあった。しかし50年代以降,生態学が理論化され,進化生態学が発展するにつれ,野生生物管理学と生態学は疎遠になっていったのである(21)。それゆえ,生態学由来の保全生物学は,類似した目的を持っていたに� �関わらず,野生生物管理学と異なる学問として発展することになったのである。
 


海の星や他の棘皮動物は、失われた腕を再生成することができます

2.保全生物学の制度化−生物多様性問題と政治−

2.1.生物多様性関連法の成立

 前章で検討したように,1970年代半ばから野生生物の大量絶滅が問題となり,それに対処するため,集団生物学を基盤とした保全生物学が誕生したのは1970年代後半のことであった。それにも関わらず,保全生物学は1980年代後半になって初めて確立した分野であると考えられている。実際,1985年の時点ではこの分野の先行きはまだまだ不透明だった。この年,生態学者のJared DiamondとRobert M. Mayは,大量絶滅問題は緊急の対処を要する事態であるにも関わらず,保全生物学への資金援助があまりにも少ないことを嘆いている(22)。保全生物学はその後数年の間に爆発的に制度化した。その理由は,それまで一部の生態学者や環境保護運動家にしか知られていなかった生物多様性の問題が,1980年代後半になって社会的に認知され始めたからである。
 ではなぜ,1980年代後半になって,突然生物多様性問題が知られるようになったのだろうか。まず考えられるのは,環境政策上の何らかの転換が生じた可能性である。しかし実際には,当時政権を担っていたRonald Reagan大統領は徹底した反環境政策を推進した。Reaganは環境保護に批判的な人物を次々と要職につけ,環境保護庁(EPA)や環境の質に関する諮問委員会(CEQ)の予算を大幅に削減した(23)
 このような反環境主義の嵐の中で,環境運動は逆に強化されたことが知られている。アメリカの環境運動はReaganの前任のCarter大統領時代には一応の成功を収め,その後沈静化していた。それがReagan反環境主義の勃興に対応して,再び活発になったのである。この結果,環境保護団体は会員数を飛躍的に延ばし,大規模な活動が可能になった。さらにロビー活動も活発化し,政策過程に直接に介入していった。それまでも環境保護団体と連邦議会とは密接な関係を持っており,環境保護団体のメンバーはしばしば立法のための公聴会に参加し,議員に意見を求められていた(24)。1960年代末に確立したこの関係が,80年代に入ってさらに強化されたのである。こうして反環境主義のReagan政権下における環境政策では, 連邦議会が重要な役割を果たすことになったのだった。
 議会と密接な関係を持つことによって環境政策に介入していったのは環境保護団体だけではない。生物多様性問題を憂慮する生物学者たちもまた政策決定に関与していった。例えば1986年の特別海外援助法(Special Foreign Assistance Act of 1986)(25)は,議会,環境保護団体,生物学者の三者によって成立した法律である。
 この法律は,発展途上国開発援助を担当している国際開発庁(AID)に対し,年間250万ドルの保全関係予算を割り当てることを定めたものである。この法律の発端は,1983年の国際環境保護法(the International Environmental Protection Act of 1983)にある。この国際環境保護法の立法化で,初めて連邦議会で生物多様性の危機が問題になった。この法律は,アメリカの発展途上国援助は生物種の保全を考慮に入れなければならないことを定めたものだった。さらに国際開発庁(AID)などに,アメリカが発展途上国の生物多様性保全のためにとる戦略の報告書の提出を義務付けた。この法律に基づき,1985年2月,国際開発庁を中心とする11機関からなる委員会は『アメリカ生物多様性保全戦略』(26)を議会に提出した。それを受け,その年の6月6日,この報告書を評価する公聴会が下院外交委員会人権国際組織小委員会によって開かれた。このように連邦議会は立法のみならず,その法律が行政府によって正当に運営されているかを評価する権限を持っている� ��この公聴会では,この報告書は,出席した議員や,世界野生生物基金(WWF),天然資源防衛会議(NRDC)などの環境保護団体によって厳しく評価された。彼らによると,この報告書は具体性がなく,実行力を持たない。その理由として彼らは,国際開発庁に自然保護の専門的な知識を持つ人物がほとんどいなかったことを挙げた(27)。この批判を受けて,小委員長のGus Yatronは,1986年の特別海外援助法のもとになる法案を提出した。
 この法案が議会を通過している最中に,生物多様性をアメリカ中に知らしめることになる一大イベントが開かれた。1986年9月21日から25日まで,全米科学アカデミーとスミソニアン協会の後援で,ワシントンで開催された生物多様性フォーラムである。このフォーラムで初めて短縮形の「生物多様性」(Biodiversity)という用語がもちいられた。この用語を考案したのは,全米科学アカデミー行政官のWalter Rosenである。このフォーラムの報告書(28)の編集を依頼されたE.O. Wilsonは,「威厳の欠ける」この用語より,それまで用いられてきた「生物学的多様性」のほうがよい,と主張した。しかしRosenは断固として「生物多様性」の採用を主張した。なぜなら,「生物多様性のほうが単純で目立つ,だから一般人が容易に覚えてくれる」(29)からである。
 このように,このフォーラムは明らかに生物多様性問題の知名度を高めることを意図して開催されたものだった。そのため派手なパフォーマンスも見られた。14000人の会場参加者に加え,最終日に全米およびカナダ中の100以上の大学を結んで開かれた遠隔会議による参加者は5千人から1万人にもおよぶと見積もられている。「地球クラブ」と称する9人の高名な生物学者たちが,記者会見を行い,種の絶滅の危機を訴えた。このフォーラムは,新聞でも一面トップで扱われ,多くの報道陣を集めた。この一年前に開かれた第2回保全生物学会議に一人も報道関係者が来なかったことと対照的である(30)。Wilsonらが編集し,全米科学アカデミー出版部から出たこのフォーラムの報告書は,科学アカデミー始まっ て以来の記録的なベストセラーになった。その結果,「生物多様性」は1987年には自然保護関係文献で最も使用頻度の高い用語となったのである(31)
 このフォーラムの会期中,先述した1986年の海外援助法は,下院はすでに通過していたが,上院ではまだだった。そこで,フォーラムの講演者たちや,アメリカ生態学会,アメリカ生物学連合(AIBS)のメンバーたちは上院議員のオフィスを盛んに訪問し,法案への支持を訴えた(32)。その結果,フォーラムが終了した5日後の9月30日,この法案は上院を通過し,法律として成立することとなった。
 これまで見てきたことからもわかる,生物多様性フォーラムが首都ワシントンで,大々的に行われた背景には,明確な政治的な意図があった。フォーラムの講演者の一人,ペンシルヴァニア大学の生態学者Daniel H.
Janzenは後に,「ワシントンの会議?あれは明らかに政治的な行事だった。特に議会に,われわれの喪失しつつある種の複雑性を認識させるためのものだった。」(33)と言っている。
 

2.2.連邦議会と保全生物学の制度化

 生物多様性問題が連邦議会に認識されたのは,前節で検討したような環境保護団体や科学者と議会との親密な関係のみに起因するわけではない。発展途上国の生物多様性がアメリカの議会で問題となったのは,途上国の生物多様性がアメリカにとって利益になるからである。1987年3月に連邦議会技術評価局が提出した報告書『生物多様性を維持するための技術』は,生物多様性の減少がアメリカに大きな損害をもたらすことを指摘している。
多様性の減少は・・・農業,産業,製薬業の発展にまだ使用されていない資源を利用するという選択を排除してしまう。穀物の遺伝子資源は50%の生産力の増加と,アメリカ農業への年間10億ドルの貢献をすることが見積もられている。・・・植物種の喪失は植物由来の薬品の数10億ドルの潜在的な損失となる。(34)

このような農業や産業の原材料となる遺伝子資源の重要性は早くから知られており,各国で保護されてきた。しかし1980年代に入ってその重要性は飛躍的に増したのである。1980年,連邦最高裁判所は初めて,遺伝子工学によってつくられたバクテリアへの特許法の適用を認めた。それまでは生物種への特許が適用される範囲は限られていた。この判決は遺伝子資源の商業的な価値を飛躍的に増大させたのである(35)。この結果,生物資源の豊富な発展途上国における自然保護が緊急の課題となっていった。
 この議会技術評価局報告書『生物多様性を維持するための技術』が,保全生物学の制度化を推進することになった。報告書によると,基礎研究に資金提供する全米科学財団は保全生物学を「あまりに応用的」と考え,他の政府機関は「あまりに理論的」と考えている。そのため,保全生物学の研究資金は非常に少ない。報告書は全米科学財団に保全生物学研究プログラムを設置することを提案している(36)
 全米科学財団は当初この案に難色を示したが(37),のちには保全生物学を全面的に支援することを明言した(38)。その結果,保全生物学への資金提供は飛躍的に伸びることになった。ある調査によると,1987年から2年間で生物多様性研究のための連邦予算は16%増加し,民間財団からの資金提供は750%増にもおよんだという(39)。この結果,アメリカ中の多くの大学で保全生物学の専攻やコースが設置されるに到ったのである。こうして保全生物学は一つの分野として,完全に定着したのである。
 

結語

 本稿では第一に,保全生物学の理論的な成立について論じた。保全生物学は進化生態学に由来する応用科学である。予測を導くことが出来る生態学の理論が生まれたことにより,初めて自然保護への応用が可能となった。第二に,保全生物学の制度化について論じた。保全生物学が一つの分野として確立するためには,理論的な基盤だけでなく,制度的な基盤が必要だった。そのためには生物多様性の危機を政治的な問題とする必要があった。その原動力となったのは,生態学者や環境保護団体の活動であった。発展途上国の生物多様性がアメリカの産業にとって利益となることもまた,一つの大きな原動力であった。
 保全生物学は未だ発展途上の分野である。従来の科学技術が多くの環境問題を引き起こしてきたのに対し,保全生物学がオールタナティヴな科学となりうるのではないかと期待されている。確かに生態学は地味なフィールド科学である博物学に由来する学問であり,従来の科学技術とは異なる性格を持っていた。しかし1960年代以降,生態学が大きく変化した結果,生態学も既存の科学技術と多くの共通点を持つに至っている。その一つは数学を用いた自然記述と,実験による予測の検証である。MacArthurらが推し進めた生態学の理論化により,生態学はフィールドで観察・記述・分類を行う科学から,自然を数学的に把握し,管理する科学へと変貌したのである。もう一つの共通点は,巨大科学化である(40)。従来の 生態学においては,基本的に個々の研究者が各自のフィールドを持ち,個別に研究を行っていた。しかし現在の生態学には巨大な資金がつぎ込まれるようになっている。研究者は組織化され,プロジェクトに組み込まれつつある。
 保全生物学の制度化が,遺伝子工学の発達によって導かれたことにも注意する必要がある。かつては,生態学と分子生物学は生物学の両極端にあったと言っても過言ではない。実際,1950年代の分子生物学の興隆は,生態学の存続を危機に陥れたのである(41)。今日では生態学は分子生物学の手法を用い,分子生物学は生態学から材料を提供されている。生態学と従来の科学技術は決して対立するものではなく,むしろ補完しあうものと言えよう。
 

本稿は,1999年1月に京都大学文学部に提出した卒業論文をもとにしたものである。資料の収集にあたって協力してくださった関西アメリカンセンターの方々,並びに研究の過程でお世話になったすべての方々に感謝する。
 
 


  1. 生物多様性には,ここであげた種の多様性,遺伝的多様性に生態系の多様性を加えて3つのレベルがあるとされる。この三分法は,生物学者のEriot Norseらが1986年に提案した概念である(E. A. Norse, K. L. Rosenbaum, D. S. Wilcove, B. A. Wilcox, W. H. Romme, D. W. Johnston and M. L. Stout. 1986. Conserving biological diversity in our national forests. The Wilderness Society.) 。しかし,しばしば問題にされるのは種の多様性と遺伝的多様性であり,特に初期の保全生物学で問題となったのもこの2つであるため,本稿ではこれら二者についてのみ扱っている。
  2. 保全生物学の確立に貢献した生物学者Michael E. Souleは次のように言っている。「保全生物学は多くのほかの生物学と重要な点で異なっている。それはしばしば危機の学問分野である。生物学,とりわけ生態学との関係は,外科の生理学に対する関係,戦争の政治学に対する関係とアナロジーである。」(Micheal E. Soule. 1985. What is Conservation Biology? BioScience. 35:727-34.)
  3. E. O. Wilson. 1992. The Diversity of Life. Harvard University Press, p.196,邦訳,大貫昌子・牧野俊一訳. 1995 『生命の多様性』岩波書店, p.302.
  4. E. O. Wilson. 1994. Naturalist. Island Press, p.355,邦訳,荒木正純訳. 1996 『ナチュラリスト 下』法政大学出版局, p.494.
  5. A. Gomez-Pompa, C. Vazquez-Yanes and S. Guevara. 1972. The Tropical Rain Forest: A Nonrenewable Resource. Science. 177:762-65.
  6. Constance Holden. 1974. Scientists Talk of the Need for Conservation and an Ethic of Biotic Diversity to Slow Species Extinction. Science. 184:646-47.
  7. Norman Myers. 1976. An Expanded Approach to the Problem of Disappearing Species. Science. 193:198-202.
  8. Micheal E. Soule and Bruce A. Wilcox eds. 1980. Conservation Biology : An Evolutionary - Ecological Perspective. Sinauer Associates.
  9. R. H. MacArthur and E. O. Wilson. 1963. An Equibrium Theory of Insular Zoogeography. Evolution. 17:373-387.
  10. Daniel Simberloff and L. G. Abele. 1976. Island biogeographicd theory and conservation practice. Science. 191:285-86.
  11. Jared M. Diamond. 1976. Island Biogeography and Conservation:Strategy and Limitations. Science. 193:1027-29など。
  12. SLOSS問題は,1980年代に入ると沈静化し,種数よりも個々の種の存続が問題とされるようになった。
  13. Daniel Simberloff. 1988. The contribution of population and community biology to conservation science. Annual Review of Ecology and Systematics. 19:473-511.
  14. O. H. Frankel. 1974. Genetic conservation: our evolutionary responsibility. Genetics. 78:53-65など。
  15. 50−500則については次を参照。I. R. Franklin. 1980. Evolutionary change in small populations. In Soule & Wilcox, 前掲書, pp.135-49. 現在では,この数字はあくまで保護の目安程度としてとらえられている(Simberloff, 前掲論文)。
  16. 進化生態学と集団遺伝学の関係については次を参照。Joel B. Hagen. 1992. An Entangled Bank : The Origins of ecosystem Ecology. Rutgers University Press, Chap.8. Sharon E. Kingsland. 1995. Modeling Nature : Episodes in the History of Population Ecology. 2nd ed. University of Chicago Press, p.227.
  17. James P. Collins, John Beatty and Jane Maienschein. 1986. Introduction : Between Ecology and Evolutionary Biology. Journal of the History of Biology. 19:169-180.
  18. David Lack. 1954. The Natural Regulation of Animal Numbers. Clarendon Press.
  19. W. D. Hamilton. 1964. The genetical evolution of social behavior. T,U. Journal of Theoretical Biology. 7:1-52.
  20. J. G. Teer. 1988. Conservation Biology. The Science of scarcity and diversity. Book review.  Journal of Wildlife Management. 52:570-572.
  21. 野生生物管理学者のFrederic Wagnerは,この二分野が疎遠になっていったのは1958年からだと言う。この年は,前述の生態学の理論化を推進したRobert MacArthurがアメリカムシクイの群集についての論文を発表した年である。Frederic H. Wagner. 1989. American Wildlife Management at the Crossroads. Wildlife Society Bulletin. 17:354-360.
  22. Jared M. Diamond and  Robert M. May. 1985. Conservation biology: A discipline with a time limit. Nature. 327:111-12.
  23. Reagan政権下の環境政策については次を参照。久保文明. 1991. レーガン政権と環境保護政策−規制緩和と運動の制度化−. In 阿部斉・五十嵐武士編『アメリカ現代政治の分析』東京大学出版会. pp.219-48,Sammuel P. Hays. 1987. Beauty, health, and permanence : environmental politics in the United States . Cambridge University Press, Chap.15.
  24. Hays, 前掲書, p.491.
  25. この法律は,1961年の海外援助法(Foreign Assistance Act of 1961)119条に修正を加えたものである。1986年の特別海外援助法も,この条項にさらに付け加えられた修正を指す。
  26. U.S. Strategy on the Conservation of Biological Diversity. 内容は,Laura Tangley. 1985. A New Plan to Conserve the Earth's Biota. BioScience. 35:334-341を参照。
  27. 公聴会の内容は,U. S. House of Representatives, Committee on Foreign Affairs, Subcommittee on Human Rights and International Organizations. 1985. U. S. Policy on biological diversity.
  28. E. O. Wilson and F. M. Peter eds. 1988. Biodiversity. National Academy Press.
  29. Wilson,前掲書, 1994, p.358.
  30. この第2回保全生物学会議は,保全生物学会が誕生した重要な会議であった。しかし,生物多様性問題の社会問題化という文脈では,生物多様性フォーラムの方がはるかに重要な会議である。第2回保全生物学会議の成果は,次の書物にまとめられた。Micheal E. Soule ed. 1986. Conservation Biology : the Science of Scarcity and Diversity. Sinauer Associates.
  31. Wilson,前掲書, 1994, p.359.
  32. Laura Tangley. 1986. Biological Diversity Goes Public. BioScience. 36:708-15.
  33. David Takacs. 1996. The Idea of Biodiversity. Johns Hopkins University Press, p.37.
  34. U. S. Congress Office of Technology Assessment. 1987. Technologies to Maintain Biological Diversity, p.4. 議会技術評価局は,合理的な科学政策を推進するために,1972年に設置された機関である。技術評価局は議会の依頼に基づき,科学技術政策に関する報告書を製作し,議会に提出する。
          技術評価局の設置は,行政府に偏りすぎた権力を議会に取り戻す運動の一つであったことが知られている(Bruce Bimber and  David H. Guston. 1995.  Politics by the Same Means. In Sheila Jasanoff et al. eds. Handbook of Science and Technology Studies. Sage Publications, pp.554-571)。戦後アメリカではしばしば,大統領の所属する政党が議会では野党であったことに注意する必要がある。技術評価局は,議会が反環境主義の行政府とは別個の政策を推進する際に,重要な役割を果たしたと言うことができるだろう。ちなみに技術評価局は共和党多数議会の下で1995年に廃止されたが,当時の技術評価局がクリントン大統領と同じ民主党よりだったからであると言われている。
  35. バイオテクノロジーによって,植物遺伝子資源を用いた種子産業が巨大化する過程については次の文献を参照。久野秀二. 1994. 多国籍企業のアグリバイオ戦略と種子産業. 経済論叢. 153:239-261.

        生物多様性保全と遺伝子資源との関係を最も端的に示しているのは,ペンシルヴァニア大学の生態学者Daniel Janzenが中心になって設立したコスタリカ国立生物多様性研究所(INBio)である。INBioは、アメリカの製薬会社メルク社の資金と技術をもとに経営されている。INBioはコスタリカの生物種の採取,同定を行い,それらの種からメルク社が新製品を開発した場合、研究所に利益の一部が支払われる。研究所はその利益を熱帯雨林の保護に使用する。INBioについては,Takacs,前掲書, Chap.6を参照。
          しかし,このような先進国の遺伝子産業と結びついた保護戦略は,発展途上国の一部の強い反発を招いている。インドの科学論研究家Shivaの一連の著作を参照。例えば,Vandana Shiva. 1993. Monocultures of the Mind : perspectives on biodiversity and biotechnology. Zed Books, 邦訳,高畑由紀・戸田清訳. 1997 『生物多様性の危機』三一書房。
  36. U. S. Congress Office of Technology Assessment, 前掲書, p.16.
  37. Laura Tangley. 1988. Research priorities for conservation. BioScience. 38:444-48. 全米科学財団は当初,従来の計画で保全生物学研究は十分推進されているとしていた。
  38. Christine McGourty. 1989. Biodiversity plan gets backing from NSF. Nature. 340:585.
  39. C. A. 1991. US opens pockets to protect species. Nature. 350:265.
  40. 生物多様性科学国際共同研究計画(DIVERSITAS)が進行中である。
          実は生態学の巨大科学化は,保全生物学に始まったことではない。1960年代末に,生態系生態学がビッグプロジェクト国際生物学事業(IBP)を組織したことがある。生態系生態学については,多くの科学史研究がある。例えば Frank B. Golly. 1992. A History of the Ecosystem Concept in Ecology : More than the Sum of the Parts. Yale University Press.
  41. Wilson,前掲書, 1994. Chap.12.

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