「新しい脳」と「古い脳」の関係
実は、我々はある事実を知ることで、心と肉体という古典的な関係が霊と肉体として捉える必要性はないことがわかります。
脳には大脳辺縁系という部位があります。 これは大脳半球の下の方にある領域で、海馬、扁桃体、帯状回などで構成されます。 ヒト以外の哺乳類では大脳の多くを占めており、いわゆる「古い脳」……本能行動や情動に重要な役割を担っていると考えられています。「情動脳」と表現されることもあるように、ここで生まれる情緒は快・不快、好き・嫌い、怒り・恐怖、接近・回避、攻撃・逃避などであり、生物がその生命を維持するために非常に大切なところです。 ヒト以外の哺乳類の脳のほとんどはこの部分が占めているとされます。 ヒトはこの上に新� ��い脳を発達させました。 それが大脳新皮質。 人間特有の高次な機能はここが中心的な役割を果たしています。 ところが、この大脳は、それ単体で、独立して情報を処理することは出来ません。 かならず「古い脳」などとの連携が必要になります。「新しい脳」は「古い脳」が感知し、発生させた情報を、統合的により高次に処理します。ここで重要なのは、我々の快・不快、好き・嫌い、怒り・恐怖、接近・回避、攻撃・逃避、そしてこれに直結する冷や汗が出るとか、動悸が激しくなるとかいう肉体的な反応、これらは我々の言わば理性、「新しい脳」に情報が届く前に起こってしまうということです。これはきっと昔我々がオオカミなどの脅威から身を守るために、考えるよりも前に危険を察知し、敏速に行動を起こすよう� �必要性があったからでしょう。 現代の我々はこのような身の危険はほとんど無くなりましたが、相変わらずこのシステムはまったく変わらず作動し続けています。
さて我々が古代人と違うところは、この我々の脳のシステムを知っているというところにあります。 我々の「新しい脳」は「古い脳」がどのように動いているか、快を感じているか、不快を感じているか、恐怖しているか、安心しているか、それをモニターすることができます。 これが前述した意識する方(心)と意識される方(肉体)があって、自我とはこの関係なのだということを示すことができるのです。 つまり自我とは心と肉体の関係ではなく、「新しい脳」と「古い脳」の関係なのだと言えるんじゃないでしょうか。
それではどうしてこのよ� ��にヒトは大脳新皮質が発達したのでしょう。 よく言われることは以下のようなことです。
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「ヒトは猿と同じように、木の上が安全だとして、生活していました。 我々の手が親指と他の四本の指が離れているのは、木の枝を握るからです。 そのヒトがある時、森の外へと移動しました。 木の枝を握ってぶら下がった状態は背骨が地面に対して、垂直になります。 これによってヒトは重たい脳を支えることが出来るようになりました。 背骨が地面と平行のままでは脳はここまで大きく重くはならなかったでしょう。 そして親指と他の四本の指が対向しているので物を握ることができるようになり、道具を扱うことが出来るようになりました。 大きく重くなる脳を支えることが出来るようになり、道具を使用することによって実� �に頭脳は発達したのです。 」
でもこれは、なぜ人間は高度な知能を持つようになったのかという謎を十分に説明しているわけではありません。 必要条件がそろっただけで、十分条件の説明がありません。 親指と他の四本の指が対向している動物は他にもたくさんいるし、オランウータンだって、いつも我々と同じように頭を上にしています。 我々の脳の発達に関連する身体的機能や特徴を数え上げて、逆にこの特徴や機能があったから脳が発達したのだという論法は説得力はあっても同語反復に近いものがあります。
四本指と親指が対向し、直立歩行したことによって大脳新皮質が発達したという説明は可能でも、ではなぜその発達が 「古い脳」が感知し、発生させた情報を、統合的により高次に処理することに� ��ながったのかは説明できていません。
ヒトは大脳新皮質が発達したから自我意識が形成されたのだというのは、他の動物と比較すればすぐにわかりそうなことだし、脳のある部分を切除すれば、通常の意識生活が出来なくなるのだから自我意識が脳によって機能しているのは間違いのないことですが、それではどうして発達した大脳新皮質がこのような機能を持つようになったのかは、たまたま進化の過程でそうなったからだとしか説明しようがありません。
そこで別の説明が必要となります。 それは我々の身近にあるソフトウエアとハードウエアというアナロジーです。
例えばパソコンはハードウェアとソフトウエアからできています。 いくらハードウェアが立派でもソフトウエアというプログラムがなければ� ��ソコンはただの箱です。 それではハードウエアとソフトウエアはどちらが先でしょうか。 それははっきりしています。 ハードウエアはソフトウエアが構築されない限り、作ることはことはできません。 そもそもコンピュータは計算を速くするために開発されました。 計算するということ、足し算、引き算、かけ算、そのような計算規則というソフトウエアがなければコンピュータは実現できません。 無論、ここにはフィードバックということがあります。ハードウェアがソフトウエアによって開発されていくにつれ、逆にハードウエアの進歩がソフトウエアの開発に影響を与えるでしょう。 しかし基本的にはこの構図は変わりません。 それは「物質は精神が作りだした。」ということを示しています。
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つまり脳というハードウエアが先にあって、このハードウエアが自分でソフトを開発したというのは、苦しい推論です。逆にソフトウエアがあって、それがハードウエアを開発したという方が理解しやすい。 我々が知る自我、そのままが脳に先んじてあったかどうかはわかりませんが、自我の元になるものは脳とは別にあるとした方が納得できます。 脳はいわば物質的なものへの変換機能ではないでしょうか。 たとえば、我々はテレビという受信機がないと、テレビ放送は見られません。 テレビは電波を捉え、我々が見ることが出来る画像に変換します。 テレビは単なる受信機であり、表示機能を持つに過ぎません。 テレビが壊れれ� �映らなくなりますが、テレビ放送が壊れたわけではありません。
ここで整理してみましょう。 自我は心と体ではなく、新しい脳と古い脳の関係として理解することができます。 しかしそれはハードウエアとしての脳を説明することに過ぎません。 そこで我々はパソコンのように、ハードウェアという脳とソフトウエアという情報の相互作用であると説明することができます。 だから脳という物質だけを取り上げてこれが我々だとは言えないし、その脳が処理し、蓄積する情報のみを切り離して我々だとはいえません。 しかしここには明確な序列があります。 ジョセフソンが述べるには我々の宇宙は最高精神の働きかけで、エネルギーが一カ所に集められて、ビッグバンが起こったということですが、最高精神は、さら� �宇宙を発達させ、物理定数を生命や知性の発達にふさわしいように、調節したと言います。
1+1=2 という式が最初にあって、それから計算機ができます。 その逆はありえません。 でもこれにも反論があります。そもそも1,2,3と数えるのは、何かの物質が先にあったからなのだと。 「石ころが三つあったから初めて一,二,三と数えることが出来たんじゃないか。 何もないところで、数えることはできない。だからやっぱり物質が先なのだ。」 それではここに犬がいたとしましょう。 犬の前には三つの石ころがあります。 でも犬は千年経っても1,2,3と言葉で数えられないでしょう。 卵が先か、鶏が先かという話にもなかなかなりません。 「物質がいかにして精神を生み出すことができるのか� �」 この回答は物質のみを扱う脳科学からは得られません。
そもそも最も不思議なことは我々の脳がこの最高精神の法則を観察し、理解することができるということです。 ごく当たり前の話のようですが、よく考えてみると、これほど不思議なことはありません。 そもそも我々の世界におこる現象に何らかの規則性を見いだし、さらにその奥に最高精神をイメージする人がいるということ自体、物質のみで世界が構成されていないという有力な状況証拠となります。 今日の科学社会の概念の基礎を作ったと言われ、人体を一つのメカニズムとして考える端緒を作ったデカルトでさえ、精神の存在を認めざるを得ませんでした。
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実際のところ、本当に霊魂は存在するのでしょうか。 わたしがわたしであること、 それは何かわたしという霊魂(ソフトウエア)があって、ちょうど霊魂という運転手が肉体という自動車(ハードウエア)を運転しているのでしょうか。 霊魂の存在を認めなくても我々の精神的な活動を説明することは出来ます。 我々はごく自然に自分が身の回りの物質的世界とは違い、一個の人格としてそれらの物質的世界に対して独立して存在しているように感じています。 しかし我々は道元が言うように「身体髪肌はもと父母の二滴に過ぎず、一つ呼吸が止まれば、直ちに生のないものとなり、四大は山野に離散して、ついに泥土となるばかり」であり、わたしという存在� �のもの(自我)もなくなってしまうのです。 霊魂は不滅であるという証拠はどこにもありません。 仏教で言うところの「諸法無我」、いかなる存在も永遠不変の実体を有しません。 しかしだからといって物質のみで世界は説明できません。 それは先ほど説明したとおりです。
そこで霊魂とは何か、もう一度宮沢賢治を読んでみましょう。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失は� ��)
「わたくし」というのは現象であって、様々な因子が集まって動いているものであり、それは発生し、変化し、消滅するものなのです。 (諸行無常) したがってそこに不変の実体のようなものは存在しません。 (諸法無我) そうであるから、霊魂というものは現象であって、この世界の環境と肉体を離れて存在する事はありません。 因果交流電燈のひとつの青い照明です。 ところが、ここで賢治は不可解な文章を付け足します。 (ひかりはたもち その電燈は失はれ) 因果交流電燈という現象が消失しても光は保たれると言います。 これは我々の存在し、行為した結果がこの地上に何らかの形で残る、刻印されるということを示しているとすれば、最もわかりやすいでしょう。 今こうやって賢治はとっくに� ��んでいるのに、賢治の詩が読めるというのもその一つです。 しかし賢治がここで「ひかり」と言う時、わたしにはそれは刻印されたものや、記憶や、記録のことを言っているのではないように思われます。 このひかりが、魂や肉体と分けられた霊なのです。
霊はここで「ひかり」として表現されます。 それはヨハネの福音書の最初の文章に出てくる「光」に通じます。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったのは何一つなかった。
言の内に命があった 命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。
ここで言う「言」、そして「光」とは、ジョセフソンが言うところの最高精神なのかもしれません。 そして我々は「光の子」なのです。 光の子でなければ、我々は暗闇に紛れ、消滅するしかありません。
わたしが今、霊魂の不滅について「‥と知っている。」と言えることは肉も魂も滅びることは間違いないということ。 しかし「ひかりはたもたれる。」 そのひかりとは霊のことであるということです。
霊とは仏教で言うところの「仏性」のことです。 それは涅槃経に出てくる「一切衆生悉有仏性」、 一切衆生はことごとく仏性を有するのであり、「山河大地、みな仏性海なり」ということなのです。
死後の自己同一性については、わたしは全くわかり� ��せん。 死後、たびたびわたしが引き合いに出してきた比喩、大地に染みこんだコップの中の水のように、自己同一性が消えてしまうのでしょうか。 それとも死後もはっきりと残るのでしょうか。 「千の風になって」では、自己同一性が残っていることを暗に求めています。 これについては、さすがにわたしも「‥‥と思う。」としか言えません。 「‥‥と知っている。」とはどうしても言えないのです。
ただし、このことについてわたしは様々な本を読んで探してきましたが、レヴィナスという哲学者の著書の中に気になる文章がありました。 これは何も死後の自己同一性について述べているわけではありませんが、こんなことが書いてありました。
「瞬間と瞬間との空虚な間隔の中でわたしが死ぬことが新 たな誕生の条件となるのであって、わたしに開かれる他所がたんなる「転地」ではなく「自己のうちとは違うところ」でありながら、かといってわたしは非人称の境地にも永遠の境地にも落ち込むことはない時間なのだ。」(実存から実存者へ、193頁)
「開かれる他所がたんなる「転地」ではなく「自己のうちとは違うところ」でありながら、かといってわたしは非人称の境地にも永遠の境地にも落ち込むことはない」と言われる所、それがイエスが十字架上の残酷な苦しみの中で言った「楽園」であり、「時間」なのだとわたしは思うのです。そういう意味で我々が生きている間から、死は身近に存在し、瞬間と瞬間との空虚な間隔の中で我々はすでに死を経験しているのです。 この時、我々は自己のうちとは違うところで� �りながら、自己同一性は保ち続けます。 ちょうど宮沢賢治の「ひかりはたもち‥」と言われるように。
ここに至って、我々は死後の世界のことは死んでからでないとわからないということはなくなります。 なぜなら我々は生きているときから、ちょうど臨死体験をした人のように死を経験するからです。
「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」 (ルカ 23章39節)
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