私たちは、特に見た目に判りやすい肢体不自由障害者を目にすると、自然と目をそらしたり、見ないような振りをしたりして、その障害者に対して、心配りをします。それは、障害に対する、相手の心を思いやる気持ちから出た、愛情と言うような心からと思われます。そうして自然と支援の手が伸びるような社会が来ることを願うばかりです。しかし、子どもたちか感情がストレートで、興味を持つと、とことん追求していきます。そうして、慣れれば普通に接するだろうし、ある子は、それをいじめの対象にする子もいるだろうが、そのどちらも心の中での表現はストレートで、大人のように影でこそこそと言ったイメージとはかけ離れた表現法を取るように感じる。映画「エレファントマン 」などはその代表的なテーマであったと思う。また、脳性小児麻痺なども、知的な障害の少ない場合、悩みは大きい。思い通り動かない四肢に苦労する姿は、誰にも見せたくないように感じることと思う。しかし、何でもそうであるが見慣れると、なんてことは無い。かえって、その動きに感動を覚える。昔は、障害者は町に出なく、見る機会が無かった。しかし、最近は多くの障害者が町に出るようになる、目にする機械も増えた。多数派である非障害者も、大分、その障害の特質を知るようになったと感じる。しかし、その本質は百人障害者が居れば百通りの特徴がある。自分に絶望する時期もあるだろうし、特に思春期は多くの問題が起る時期でもある。ここにおいて、最も分かりにくい自閉症スペクトラムの心の謎を知ることは、� ��くの障害者の心を知る上の最も基本的な知識となるように感じる。そこには、大多数の非障害者が感じる、考える、良いと思う支援や方法論が実は大きな間違いであったことがこれを読んでいただくと分かると思う。映画「子きつねヘレン」は視覚・聴覚障害を持つきつねの物語である。この物語が感動的なのは、動物の障害に心をくだく子どもと獣医の姿勢に、ヒト意外にも障害を持つ生き物への愛情に感動するからです。ヒトが精一杯生きていた時代、ヒトの障害にも支援が行き届かず、悲惨な時代があった。動物や弱者にも色々手が行き届く時代がやっと来た感じがする。障害者に関する本も多く出て、知識が一般化してきたことが喜ばしいが、本当の障害にまで行き届くのはまだまだと感じるのは、支援の専門家が少なく、根性� �的な支援がまかり通り、罰をあたえるような支援が熱心な支援と勘違いしている。
「淡路ふくろうの郷」は聴覚障害者専用の老人ホームが4月開園しました。画期的な施設で、視覚情報と手話で情報提供して、畑仕事や、施設の仕事も入居者が手伝うと言う生活共同体のようなグループホームのような施設です。色々な要望が入居者から出て、皆で考え決めていきます。根性や叱咤激励は(体罰は教育だ:戸塚ヨットスクール)などは論外で、一人一人の障害や気質的な特質を考慮していくことが、求められている。ハンセン氏病の隔離生活のような過ちを繰り返さないことが、求められている。自閉症スペクトラムの皆、傷つきやすく、心は不安と恐怖心でおどおどと生活している、肉食獣に狙われる草食獣のような日々の生活をおく っているのです。
全ての障害を持つ人、認知症の人たち全てが社会とかかわりを持ち続ける生活を送れるように祈る。
最近増えつつあるといわれる、自閉症スペクトラムの子どもたちは、律儀で群れなく正直で世俗の要領を必要としない、あくまで自分の安定した世界を守ろうとしている、弱い人たちである。5/5のこどもの日ABCテレビはアメリカの自閉症の実情をレポートした。1000人に5,6人の自閉症がアメリカではいると疾病管理センターが報告した。確実に増えていると言うことにアメリカは予算を今年度中につけると報告した。多くのアメリカ人の子ども達は就学までに気付かないでいる実情報告があった。有効な治療法は無いが早期に発見すると支援法があると言うものである。
自閉症の心の中・世界に� �足で入り込む一般の多数派と呼ばれる人たちにとって、理解できない人種と思われるであろう。変わっているとは、自分の価値観に合わないヒトを指すことばである。しかし、このような自己の世界に安定を求めて愚直に生きる姿に、現在日本の有り様の警鐘を示しているのではないか。見えないヒトも、聞こえないヒトも、車椅子のヒトも知的に遅れているヒトも、自分の世界の中で安定を求めるヒトもそれどれが安心して、認められ住めるゆとりある日本の現在社会の方向性を政治の世界に反映させることができない。多くの親たちはその期待に答えて大きく育てていく使命をまっとうしていく。障害者に優劣は無い。みな同じ人間で、お互いが助け合い生きていく、人間界どろどろした欲望の世界の人たちとは異なるはずである。
*25年前エキソシストが上映された時はショックな映画だった。悪魔に取り付かれた少女を助けようと、悪魔祓いをする神父の物語である。この中で、悪魔に取り付かれた少女が自閉症の女の子の脳内に語りかけたら、その少女は突然話し始めて母親が驚くシーンがあった。当時こんな風に脳に語りかけられるといいなと、印象的なシーンで、今も目に映る。60'~80'代には自閉症の本も研究書も乏しかった。しかし、最近は多くの専門書、一般書が出て知識が一般化して、絵に描いて分かりやすく成ってきている。支援法の具体例が細かく書かれて、参考になることが多くある。しかし、今ひとつ実像に迫りにくい感じがするのは私だけであろうか。すなわち、全ての事例を紹介することは出来ないので、そのように成� �本質を知ることは、色々な状況に対応出来る基礎を身につけられる、後は、状況に応じ、個々の特質に応じ、臨機応変に対応できるのではないかと考えます。 自ら閉ざすと書いてあるが、実際は別次元に住む住人であった。 自ら閉ざすと書いたおかげで誤解も多く生じている。彼らの心の中に 入れば、我々の世界と異なるために戸惑い、うろたえて避難している状況が見えてくる。理解しがたい行動、物事の固執、パニック、ことばの問題等々が、分かってくる。それを理解する先生が居ることで、学校生活は彼らにとって過ごしやすくなってくる。我々はその異邦人の世界の一端をのぞき、理解を深める事は、別の文化を理解することにつながり、他の多くの障害と言われる子ども達の理解につながっていく。一番の入門であ るのが、自閉症スペクトラムの理解である。その豊かな世界は決して不毛の世界でなく、我々に何らかの示唆を与えてくれるものとなると思われる。
<自閉症スペクトラムのオマージュ>
フンギャ~オンギャと産声を上げてからの、静かで穏やかな日々 (天使のあかちゃん)。
やっと、お誕生時を迎えて、いつしか とまどいの日々が訪れてくる。
この世界を赤ちゃんは 騒動しく刺激にみちた忌まわし所と感じだす。
子ども達は叫ぶ
何故、私たちを分かってくれないの!
何故、私たちを、この世はいじめるの!
おそいかかる不安に打ち振るえる心に 耐え難い悪魔のような仕打ち(母親は知らずに行う)。
恐怖で 傷つき、疲労困憊する精神と肉体。
何故、この世は酷い刺激に満ち� �いる、ことを分かってくれないの。
行きかう音声は、異国の音声のように心にとどまらなく 私たちを通り過ぎ消えていく。
多くの人びとに囲まれ、アアー混乱のなかで、ひどい音が頭の中に響き渡り割れそうだ 。
息苦しく、ふらつき立っていられなくなる 。
出来るだけ早くその場から逃げ出し 心から安心できるなれた所に行きたい!
アアー神様!どうして、多数派は頭がこんがらがるようなことを 強要するの。
パニックになりそうな心を、何か他の行動で我慢するほかに心を開放してくれ!
癒す逃げ場が無い・・・助けて!
壊れやすい心を、いたわり、羽毛のように接してあげないと、私たちは無くなりそう。
何処かに走り去りたい衝動に駆られる毎日。
何故、あなたたちは特別な能力� ��持っているの。
多数派はそれらの能力と行動にとまどっています。
レイマンのような異邦人の理解には、この内容を読めば、不安と恐怖におののく心とその能力を理解できます。
是非読んで私たちを理解してください。
★ジョンズ・ホプキンス大学の児童精神科医カナーが提唱した1943年自閉症(現在の低機能自閉症)以来多くの、多様なサブグループと考えられる自閉症様な特徴を示す疾患が提唱されてきた。これらを分類して全てをきれいに分けることは大変難しく、多くの疾患が血液検査、尿検査、レントゲン検査、CT,MRI検査、脳波、心理テスト等々で分類診断されるのに対して、この自閉症の類似疾患群は今のところ、はっきりとした検査が無いのが実情である。「冷蔵庫マザー」ということばが提� ��され、その後その逆の虐待とも思える訓練が行われた、不幸な歴史があった。1944年、オーストリアのウィーン大学の小児科医アスペルガーに代表される自閉症群を広汎性発達障害(現在の高機能自閉症、広汎性発達障害には下記のようなものが含まれる。なお、知的障害の無い、もしくは軽いものは高機能広汎性発達障害と呼ばれ、軽度発達障害に分類される。)とされたが、イギリスではこのことばを嫌い、自閉症スペクトラムとした。1960年代後半、イギリスのモズレー病院のマイケル・ラターによって、自閉症は先天性の脳障害だという説が発表され、自身にも自閉症の娘がいるイギリス/モズレー病院の医師ローナ・ウィングが、英語圏ではほとんど忘れられていたアスペルガーの論文を英訳して再発表し、高機能自閉症の存在を� �く知らせた。それまでのイギリスでは知的障害のある自閉症児にしか福祉の手が差し伸べられていなかったのであるが、自閉症の本質は知的障害や言語障害ではなく対人関係の障害であるため、高機能自閉症も支援の対象にするべきだとの考えである。この診断の困難さを以下ローナ・ウィングの「自閉症スペクトル」の中から引用する。
① | 障害は多種多様な姿で現れ、その中には微妙なものもあれば気づきにくいものもある。 |
② | 自閉症スペクトル障害は、一般知能の最重度障害から平均よりずっと上に至るまでのいかなる水準においても起りうる。 |
③ | 自閉症スペクトル障害は、何らかの身体障害や他の発達障害を伴うこともある。なかでも、てんかん発作はとりわけ起りやすいものである。 |
④ | 加齢と供に、行動パターンが変化することがある。 |
⑤ | 環境により行動が変わりうる。よく組織立っている学校や医療施設におけるよりも、家庭では往々にしてよくない。というのは、家庭では親が自分たちに注意をひこうとあれやこれやの要求をするかである。 |
⑥ | どんな人が一緒にいるかによって、行動が異なってくる。自閉症障害に働きかける経験を豊富に持った大人と居るときのほうが、そうした経験の無い人といり時や、まとまりの無い集団に居るときなどより良いのが常である。アスペルガーの代表される行動パターンを持った高機能の成人例では、一対一の状況では、たとえ精神科医との面接であっても、障害の特徴が全く見られない人も居る。彼らの問題は生活史の中に現れ、とりわけストレスを感じるような出来事にどう対応するのかということであきらかになる。 |
⑦ | 教育は、行動パターンに影響を与える。 |
⑧ | 個々人のパーソナリティ は、行動に反映されるとともに行動に影響を与えもする。 |
診断は入手可能なあらゆる情報からもたらされ集積された個人史によってなされる。
自閉症障害を持つ人は一人一人異なります、このため、多くに共通した一般的なガイドのようなものはあるが、全てに当てはまるようなものは無い。
(対人関係の困難)、(コミュニケーションの困難)、(想像性の欠如)さらに(復的行動)これらが背景にあることは識別できる。
診断が2歳以前の早期に下されることはめったに無い。自閉的行動を示す乳幼児は、生後1年ぐらいの間には、親たちは発達上の問題に気づかない。しかし、注意深い体系だった質問をすれば、多くの場合、その1年の間にも行動の異常が示される。
1: | おとなしくて要求が少なく、乳母車の中で1日中静かに横になり、満足している。 |
2: | 昼夜関係なく泣き叫び、あやしたりなだめたりしても止まらない子。 |
3: | ふりかえってみてもどちらのパターンに当てはまらない、何の問題もなく育った子もいる。 |
体を触られるのを嫌がる、指差しをしない、抱き上げたりするときに人形のような手足を使わないで、おんぶされる用意のようなしぐさが無い、視覚刺激に対する著しい興味、人や動物や景色に対する興味の無さ、「イナイイナイバー」などの遊びに興味を示さない、体格は普通に育つ、運動能力は遅れることがある、生後1歳頃には、親はうすうす発達上の問題に気づくことが多い、何か特別の発達上の高い能力も持つ子の場合は2歳ぐらいまで気づかないことがある、あるとき2,3週間でことばなどの退行が見られることがある、
(対人関係の困難)(コミュニケーションの困難)(想像性の欠如)が共通した特徴である。
「広汎性発達障害」は、「自閉症」「アスペルガー症候群」「レット症候群」「小児期崩壊性障害」「その他の自閉症」という5つの障害の総称です。3歳までに自閉症スペクトラムの3つの項目が当てはまること。
非定型性自閉症
3歳以降に発症し、小児自閉症の3つの症状が揃わない、など定型的でない自閉症。
レット症候群
広汎性発達障害の最重症型。乳児期~2歳頃から目的ある手の動作や会話をできなくなる。手を洗うような常同運動をつづけ、噛む運動もできなくなる。児童期には体幹失調・脊椎変形・舞踏病様運動・てんかん発作が現れ、進行性に運動機能が崩壊する。精神遅滞は重度。女児のみに発症。
小児期崩壊性障害
(レット症候群以外の)広汎性発達障害で、機能における特徴的異常の発作とともに、社会的機能、コミュニケーション機能、および行動障害の発症に先立って明らかな正常の発達期間が存在すること、そして明らかに数ヶ月にわたって、以前に獲得された能力が、少なくともいくつかの領域において、喪失していることによって定義される。しばしば漠然とした疾病の前駆期がある。少なくとも2歳まで外見上は正常に発達したのち言う事を聞かなくなり、いらいらし、不安で過動を示す。そのあと興味の貧困化が起こり、続いて行動の崩壊おともなって言語喪失が起こる。一部の症例では(障害が進行性の診断可能な神経学的病態と関連しているとき)技能の喪失は常に進行性であるが、多くの症例では しばしば数ヶ月にわたる悪化の後進行が停止し、その後平衡状態、それから限局性の改善をみる。予後は通常非常に悪く、大多数に重度の精神遅滞が残る。この病態が自閉症とどの程度ことなるかは不明である。障害が脳症に伴って起こると考えられる症例もあるが、診断は行動面での特徴に基づいて行なうべきである。神経学的病態をともなうときは、別に分類すべきである。
心の理論の機能を調べる検査の次の二つが有名である。「自分はある事実を知っている。では、それを知らない他者はどう考えるか」を問う課題である。
スマーティ課題
スマーティは「お菓子」「甘いもの」程度の意味である。
1. お菓子の箱の中に、被験者から見えない所で予め鉛筆等を入れておく。
2. お菓子の箱を見せ「何が入っているかな?」と問う→答え「お菓子」。
3. お菓子の箱を開けると、鉛筆が入っている。→「お菓子じゃなくて鉛筆だった」。
4. お菓子の箱を閉じる。
その後「じゃあこれを家に持っていってお父さん/お母さんに見せたら、お父さん/お母さんはこれに何が入っているというと思う?」と問う。
サリーとアン課題
二人の登場人物を紹介する(サリー、アン)
1. サリーがボールをかごの中に入れる。
2. サリーが席を外している間に、アンがボールを別の箱の中に移す。
3. しばらくしてサリーが戻ってくる。
という内容の人形劇、紙芝居等を被験者に見せ、その後「サリーはボールを見つけるためにまずどこを探すかな?」と質問する。
前者では「お菓子」、後者では「かごの中」と答えるのが正解であり、多くの場合4歳程度になると、この二問に正解できるようになる。しかし心の理論の発達が遅れていると「鉛筆」、「箱の中」と事実ありのままを答えてしまう。心の理論の障害が想定されている自閉症などの患児、患者は高年齢になっても誤答する割合が高い。事実のみに目を向けてしまい、他者が自分とは違う信念を持っているということを理解できないのである。
心の理論の発達
・ | 18ヵ月までに、「ふり」ができるようになる。 |
・ | 4歳までに、だますことが可能になる。精神遅滞の子供と自閉症の子供に、「箱の中にあるお菓子を他人に取られないようにする」という指人形の芝居を行ったところ、精神遅滞の子供では「騙し」と「サボタージュ」という方略をとることができたが、自閉症の子供では精神年齢を統制しても、「騙し」のみ成績が不良であった。 |
★サリーとアンのテスト
1. サリーは、カゴと玉を持っています。
2. アンは、箱を持っています。
3. サリーは、持っていた玉をカゴの中に入れて、部屋を出ます。
4. アンは、その玉をカゴから出し、自分の箱に入れます。
5. 箱を置いて、アンは部屋を出ます。
6. そこへ、サリーが帰って来ました。
7. さて、サリーは、玉を出そうとしてどこを探すでしょうか?
このテストは、自分の視点以外(サリーの視点)に立てるかどうか、そして、サリーが持っている「玉は、カゴの中にある」という信念を理解できるかどうかを、テストする課題です。
3才ぐらいでは、普通の子どもでも「玉は箱の中にある」という、自分が見て知っている事実を答えてしまうそうです。この時点では<自己中心>的で、自分の視点からしか物事を見ることができないのです。そして、4~5才になると、<脱中心化>して、サリーの視点に立てるようになるのだそうです。しかし、3才児でこのテストに失敗する子どもでも、日常生活では明らかに他者の視線を意識しているし、「恥ずかしい」という感情や自尊心もちゃんとあるといいます。
全員と言うわけではありませんが、≪自閉症≫児・者がこの� �題に失敗するのはどうしてでしょうか?
・ | 自分以外に、「心」を持ち「信念」を持てる「他者」が存在していないのか? (「心の理論」の欠如) |
・ | 自分以外に、「心」を持ち「信念」を持てる「他者」が存在しているのは解っているけれど、その人の「視点」に立てないだけなのか? (<脱中心化>ができていない) |
・ | 自分以外に、「心」を持ち「信念」を持てる「他者」が存在しているのは解っていて、その人の「視点」に立てないわけではないのに、ついつい「自分」の「信念」を言ってしまうのか? (<脱中心化>はできているけれど、<自己>が優先してしまう) |
という、三つのことが考えられます。しかし、この課題には正解しても、下記のような場合だってありえます。これは、他のどんなテストについても言えることです。
・ | 日常生活の具体的な場面では、失敗してしまう。 |
・ | 日常生活の具体的な場面で、応用することが困難である。 |
上記のどの段階でも、「自閉症」あるいは、「自閉症スペクトル障害」に属していると言えます。それなら、「自閉症スペクトル障害」は単に成長し損ねた人達のことを指すのか、という疑問がわいてきます。
もし、「自閉症スペクトル障害」が、<脱中心化>の時期が遅れただけの、単なる発達の遅れであるのなら、いつかは追いついて"正常"になるはずです。それに、人間としての機能に異常が無くて<脱中心化>ができていないのは、単なる「わがまま」であり、エゴイストでしかありません。しかし、先ほどの段階で言えば「心の理論」があって、<脱中心化>していてもなお、「自閉症スペクトル障害」があるからには、しかるべき原因が何か他にあるはずです。
「自閉症スペクトル障害」者は、単な� �「心の理論」や「脱中心性」の欠陥者ではない、と私は思っています。もっとも、「自閉症スペクトル障害」者が、「自分一人だけの世界に住んでいる」とか、「自分一人で住んでいるわけではないが、自分独自のやり方で住んでいる」なんていうことを客観的に測定しようとしたら、その行動で判断するしかないというのは解ります。しかし、その謎を解くカギは感覚レベルの障害に隠されているというドナさん、グランディンさんの見解に、私も共感しています。
何故、≪本人≫は、感覚のことを話したがるのでしょうか? 一般的に、感覚とは、自分以外のモノと自分との接点であり、外的な世界を知る手がかりとなる材料です。しかし、単に外界との係わり方の様式であるだけではありません。それはそのまま、自分にとっ� �の内的な世界の様式でもあるのです。感覚器官としての機能は共通でも、受け止め方には文化的な影響が反映される事だってあります。日本人は虫の声から秋らしい情緒を感じるけれど、アメリカ人にとっては雑音でしかないというのが、いい例です。個人レベルでも、あるものには敏感な反応を示し、またあるものには鈍感だったりします。あるものは苦痛、またあるものは心地よさを与えてくれます。
しかし、「自閉症スペクトル障害」者には、ある程度の共通した感覚障害があるようです。そして、その内的な感覚世界に異常があるというのは、≪本人≫にとって、二十四時間つきあわなければならない大問題を、自分自身に抱えているということなのです。
でも、悲しいことに、聴覚障害者の多くが自分の聴力を疑って� ��ないのに似て、≪本人≫には自覚しにくいのです。自分の感じている感覚世界が自分だけに固有のものだなんて、夢にも思っていないのです。しかも、「自閉症スペクトル障害」と一口に言っても一人一人みな違うし、感覚障害の重症度も違えば、現れ方も違います。もし、触覚や身体感覚の異常が大きければ、行動に現われる確率は高いでしょう。聴覚の異常は、言葉の発達に係わる可能性があります。しかし、中には、あまりにも微細すぎて、何のおもてだった症状にもならないものだってあるのではないでしょうか。
いくつかの原因が脳内にあって、それぞれの感覚の異常に反映しているのか、個々の感覚は正常なのにそれを統合する部分に障害があるのか、まだ判っていません。そして、感覚異常が原因で「自閉」が起きる� ��か、「自閉」が先にあるのか、はたまた、それと知的な障害とが一体となっているのか別のものなのか…、判らないことだらけなのです。
・テンプル・グランディン著『自閉症の才能開発』第三章締めつけ機/自閉症の感覚
自閉症は症例が多彩であり、健常者から重度自閉症者までの間にははっきりとした壁はなく、たまむし色のように境界が曖昧であるため、その多様性・連続性を表した概念図を自閉症スペクトラムや自閉症連続体などと呼ぶ。
サヴァン症候群(仏語で「賢人」の意)とは、知的障害を伴う自閉症のうち、ごく特定の分野限って、常人には及びもつかない能力を発揮する者を指す。サヴァン症候群の共通点として、知的障害と共に異常な記憶力・表現力を持つにことが挙げられる。� ��なり昔から知られてはいたが、その原因は未だ論議されており、正確には掴めていない。現在では脳の器質因にその原因を求める論が有力だが、自閉症者が持つ特異な認知をその原因に求める説もまた有力である。
★自閉症スペクトラムの心の謎を探って行こう。
この場合、ここで取り上げるのは、自閉症スペクトラム(英国流)(アメリカDMS-Ⅳでは自閉性障害、広汎性発達障害)として取り上げるほうが話しやすいので、多くを包括したものとして扱います。
自閉症深読みしなければ上手く行く、自閉っ子は急には止まれない、自閉っ子はこういう風にできています などニキ・リンコ氏の本はなかなか力が抜けていて分かりやすい。我々の社交辞令「今度食事でも!」「つまらないものですが!」などは、そのま� �受け取ると嘘つきになります。そのため、実際は複雑な心を知る事が異邦人の心の謎を知り、理解し、支援しやすくすると考えます。
対人関係の困難、 コミュニケーションの困難、 想像性の欠如
言語障害がないものをアスペルガー症候群、言語障害があるものをカナー症候群と分類する場合もある。IQ70以上を高機能自閉症で、これにことばが初期から遅れないものをアスペルガー症候群というわけ方がある。しかし、三項関係の成り立ちの弱さ、上記の赤文字の三項目は総てに共通した特徴である。
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自閉症の診断基準(自閉症状の「三つ組み」)
この3つは診断基準であるから、自閉症なら必ず有しているはずである。ただ、どのような形でどの程度有しているかはケー� ��によってまちまちである。このことが、「同じ方向性の困難さを有しながらも、ケースによって千差万別の状態像である」というややこしい状況の元になっている。
ややこしさにさらに拍車をかけるのが、下の三つの診断基準を満たさないものの、似たような状態像にあるケースの存在である。養護学校では「自閉傾向」と呼ばれ、学問の世界では「広汎性発達障害」などと呼ばれている。そしてその中にさらにサブカテゴリがあったりする。サブカテゴリの中には「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」などというきわめて似通った状態像を指すカテゴリーがあったりする。
これらのどこに属するのかを考える時間を割くことは、我々教師にとって全く無意味である。とりあえず「自閉症スペクトラム」のどこかに位置す る子どもで、自閉症の障害特性を下敷きに、実際の指導はその子に合わせて考える、というやり方の方が実践的である。
・ 対人関係の特異性
*他人への関わりが独特である又は関心が乏しい。
対人関係のあり方から、孤立群、受動群、積極奇異群、のグループに分けられる。
孤立群は、他人に対する関心そのものが乏しい群である。知的発達に重度の遅れがある場合はこのカテゴリーに属することが多い。加齢や知的発達の進行に伴って別の群に移行していく場合がある。
受動群は言われたことに従いやすいタイプである。問題行動が少ないが、青年期に際だった変化が訪れることがある。
積極奇異群は、援助者に対して自分の興味関心のあることを一方的にしゃべるのが特徴である。
このカテゴライズは、ウィング先生が提唱した。
*視線が合いにくく、他者と物事を共有するのが苦手。
視線の合いにくさははじめて自閉症児と対応する人が最初に気付く点ではなかろうか。それだけではなく、他人の気持ちや考えを察したりすることが困難である。